昭和44年7月30日 夜の御理解  



 修行をさせて頂くとこにでも、その修行が神様が受け取って下さらなければ修行にはならんのですよね。
しかも受け取って下さるのならば喜んで受け取けてくださるといったような修行をさせて頂きたいと思うですね。
 たとえば、今日私の方では、私の弟の大作と申しましたが、戦死いたしました今日は、立ち日に当たりますので、しかも両親がまあ、心を込めて、というても何一つべつに出来るわけではないですから、生前好きであった、トマトを頼んでありましたから、久富さんが持ってきてくださった。
 まあ、心を込めてというても何一つ出来るわけではないですから、まあ、生前好きであったトマトをたのんどりましたから、久富さんが持って来てくださりました。まあ、心づくしの、あれこれ、まあ、御供えさせて頂いてから、まあ、玉串でも、まあ、両親が奉ったわけでございますけれども、もちろんこの、私と致しましては、これは、私の方の御霊の第一の御霊、いうなら、椛目、合楽をとおして、その源、元を取ってくれた、あー、弟の御霊、そういうおいみの事でございますから、もう、例えば小倉の桂先生とか、石橋先生とか、吉木先生と、荒巻先生あたりのような、あー、ここの大恩人であるところの御霊さまと、同格で私は、もう日々、奉仕させていただいておりますから、まあ、いうなら、式年祭でも、べつに、わざわざどうこうせんでもいったような、気持ちが致すんですけども、両親がそんなわけにはいきませんから、まあ、立ち日ですから、今日はまあ、自分たちも羽織の一つも引っ掛けて、玉串の一つも上げたかろうと思うて、今日は玉串を上げたわけでございます。
 
 ですから、も、大坪家にとりましても、もう今日はそういう意味で、ほんとは大事な日なんです。
 ですから昔から、えー、まあ、今日はだれだれのたち日だと、言ったようなときには、お茶でも沸かしたり、そして、今日は精進日として、昔は、もう非常に厳格に、どこでも、生くさけなんかを取らんで、精進をされたもんですね。
 
 私の子供の時には、村内でも皆そうでした。いまはその、精進日といったようなことが、あんまり、ほんとに精進されなくなったんですけれども、お道の信心にはどこまでも、やはり精進日は、その生くさけを食べない、といったようなことではなくて、やはり心の上で、精進をする日だと、ね、とりわけ、今日は、今日は、あー、あれの、私の弟の大作の、御霊の立ち日だから、今日は一つ、また、私と家内でいうならば、今日はお父さんがいつも大事にされ、大作さんの御霊の、立ち日だから、子供たちは今日は、顔は見たこともないけれど、おー、椛目、合楽を通しての、いうならば、うちの大恩人といわれるほどしの、御霊様の、今日はお立ち日だから、今日は精進させてもろうて、今日は、不足は言わんぞとか、腹は立てんぞ、といったような、精進でも、ほんとにもう当然のこととして、させていただかなければならない日なんですけども、そういう実感が、ひとっつもないんですよね、皆に。
ただあるのは、さすがに、両親だけだというような感じだったんですけれども、ほんとに、まあ、そんなことでは、めいめいがおかげ頂けんと、私は思うです。

 えー、今日、ちょうど、お昼のお食事を、いただき、しましてから、頂き終わったら、あの、跡片づけを、あの、小さいお部屋におる人だけでから、カレーを下げませんもん、「はあ、どうしてあげんか」と私が言いましたら、豊美が食堂におるから、で、食堂に入るごつなか、とこういうわけです。
「なしや」、ち、いうたら、あの大きな顔をば見るごつなか、と言う意味なんです。
 「そんなら俺が持っていこ」ちちから、持って行きましたから、また自分も持ってきましたけども、私はすぐ思いました。
今日はこういう大事な日なのに、どうしたことであろうかと、いつものことだけれども、親子の者が、なんか、がみがみ、とにかく子供が親に対してがみがみ大きな顔するなんて、もうとんでもない、もう、もってのないほかなんですけどもね、これは私も言いません。はらもう私の信心なんだと思たり、又は、言うて聞くような人達でもないですから、片一方が修行として受けるとか、なんかそんな、まいっちょ問題ないことですけど、片一方もそんなふうで、顔も見るごつなか、今朝のご理解じゃなかばってん、親子で顔も見るねごつなってからちゅうもんな、これはもうほんとに、えー、ほんとに悲しいことだと思いますめ。

 ね、けども私、そん時に思いました。あー、今日は、もう、いよいよ言わんでちゃ、今日だけは言わせていただこうかな、と。で、神様にそのことを、お願いさせていただきましたら、スイカのね、スイカのつるの枯れておるところを頂きました。
 ね、だからいくら言うてもです、ただいま申しますように、スイカ、いわゆる修行というものが、神様が受けてくださらないならば、もうそれはなんにもなりませんからね。

 ね、大地にもつながりがない、いくら言うて聞かせても、ね、ですから、これは私の家内であり、私の娘であるから、やはり私が、お詫びする以外にない、また言うて聞かせても、おなしことだと、思うて、申しも致しませんでしたけれども、ほんとにですね、生き生きとしたつながり、神様とのつながりを持ってです、どんなに辛いことがありましても、それを修行とこう頂いたら、いっちょん、問題ないことです。
 
 ね、ま、ほんとにもう、教会におまかないを頂きながら、この様なおかげを頂きながら、どうしたことであろうかと、ま、ほんとに私今日、家庭内の恥をさらすようですけどもです、これが今日いっぺんじゃない、いつも、それがあるんです。
 かといってです、そのそれがしこりになって、どうこうということはない、そんなその深刻なことではないのですけれども、まあ、どうした、親子のこういう縁の、なんと申しましょうかね、ほんとに幼少のときを忘れて、親に不幸のこと、と仰る、豊美なんかはもう、それは・・・?手がいっとる子供です。
 長女ではありますしね、もうそれこそ、ほんとに、涙ぐましい手がいっとるとですよ。
あの、お母さんの豊美に対しては。それがもうその、母親のしておることが、もうとにかく、もう、なんかいやでたまらんような感じがする。受けることがあるし、またこんどは、そのあんまりおどな顔で、ぶんぶんやりますもんですから、もう、家内のほうが縮こまってしまってですね、その、いうなら、家内の機嫌が、豊美の機嫌に会うようなことをしきらん、今日なんかはそんなことです。
食べがらを下げのも、食堂へ入るのがいやかというぐらい、私今日それ聞いてから、こりゃまーだまーだ、おかげをいただてならんなあ、と私は思ったんですが、そんなかから2,3頂いていかんならんことですよね。

 ね、修行というものはね、やはり、いき、生きて大地に、天地につながっておらなければ、どんな修行をしてもだめです。
今日あたりのように、どうでしょうね、とりわけ合楽では大事な日、ね、今日はもう合楽の大恩人の日、今日はどんなことがあっても、たとえば腹は立てんぞ、と、今日どんなことがあっても、修行で受けるぞと、たとえば、豊美のほうなり、家内の方なりが、受けておったら、全然問題じゃないこと、なら、私がそれを持って、あの、心汚しもしませんでした、神様からすぐお知らせを頂きましたから、ね、けれども教会内に、こういう不穏な雰囲気が、たとえば時たまでもあって、それは、なんとはなしに、なんでしょうかね、そのがんがん言うて、後はすっとしておっとてもです、親子ですからね、こういうことで、おかげの頂けれるはずはないな、と思います。
二人とも助かっていない証拠ですよね。
 ますくいうなら、ぼんぼりをみてつばはくようなことです、私としても、肝心要の、あーた、娘やら家内やらにそういう信心与えきっていないんです。
 ね、形の上に於いては、なら、家内なんかはもう、ほんとにだーれも真似の出来ん、修行をしよるばってん、なーんになりよらん修行です。いわばスイカのつるが枯れているんですから、神様につながっていない、まあ、これがほんと、これが普通でいうならですね、それこそあの、忠臣蔵の、あの、アゲヤノダン、ではないですけれど、ね、由良の助が。おかるに申しましょう、ね、後からの、最後の場面に、あの、クダユウですよね、クダユウに、由良の助が申します、「ようもようも今日は、ね、亡き殿の御たち日、ご命日だと思うて、魚肉を食べることを謹んで、精進しておるこの由良の助に、ようもようも、生き肉をつき突けたな」、というてから、無念残念がるでしょう。
あれがもし、私が由良の助のような人間だったら、今日はそういうところだったかもしれません。
けども私はおかげを頂いておるから、いくら魚肉を突きつけられてもですよね、ね、私は問題にしませんけれども、本人たちが苦し、浮かばれない、助からない、ん、本人たちが本気で、信心を頂いて、ね、修行と頂き、精進日と頂き、それが生き生きとしてです、頂けれるようなおかげを頂かなければですね、ほんとに信心を頂いている値打ちはないです。
 私の豊美がいつも、申します言葉の、私は言葉の中に、「どうあんの」「どうあんのち」こういう言葉を使うです。もう愛想もくそもない言葉ですよね。
「どうあんの」ち、よっぽ、とにかく考えてみてください、どうあるか、ということはね、こんぐらいなことしたっちゃ、どうあるかおれがこのくらいする、このくらいなことがどうあるか、と言う意味なんですよ。
 ね、又は、人に対してでも、申します。こんくらいなことしてやったちゃ、どうあんの、ち、ね、これは人に対して言う、この、・・?あっても、もう言語道断のことばをよー、使います。
ね、・・?豊美さんの心が美しい人だからというて、又は、あっさりしてるから、と
言うて、こういうことを形の上に表すようになったら、もうおしまいです。
 どうあんの、と。娘ん子の癖に。
ね、もうほんとにもう、まあ、いうなればですね、今日はたとえば、ふんなら、私としても、御理解にです、こういうことを、娘やら、家内やらのことを、その降ろして言いたくないですけれども、ほんとに本人たちが、ここを改まって、ここを気付いて、ね、せめて精進日といったような日ぐらいにゃ、精進のできることぐらいなですね、おかげを頂かなかったら、ね、もう本人たちが立ち行かん。
 どうぞ皆さん、でもね、そういう教会内だから、どうこうという、そのだいたいはね、えー、その、皆さんの手本になねばならんような信心をさせてもらうというようなことが本となんですけど、ね、そこは、やはり、いくらどんなに素晴らしい、朝晩の御祈念があったり、ご理解があったりしておっても、それをほんとに、いわゆる、ほんとの、いわゆる生きた心で、頂こうとしなかったら、おなーしことです。
 ね、これはなら、私たちもです、たとえばいまの、どうあんの、と言ったようなことをですね、えー、ここ辺の言葉ですね、あれは、どうあんの、ち、もう、
こう・・・・・・・?途中切れ         大坪かよこ